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KINDAI UNIVERSITY

貴重書・コレクション

常設展示

2009年

『炉辺のこおろぎ』(初版)

Dickens, Charles 1812-1870
The Cricket on the Hearth. 1st edition. 1846

著者 ディケンズ
出版地 ロンドン
出版年 1846年

「クリスマスの書」の第3作目。疑惑に苦しむ男の心が、炉辺にすだく こおろぎの鳴く音に解けていくという「クリスマス・キャロル」と同様 のハート・ウォーミングな中篇。

『自然哲学の数学的原理』ロシア語版

Newton, Isaac 1642-1727
Matematicheskiia nachala naturaljnoi filosofii, perevod s latinskago s primechaniiami a poiasneniiami A. N. Krylova, kniga 1-2.

著者 ニュートン
出版地 ペトログラード
出版年 1915-1916年

ニュートンは、物理学・数学・天文学などさまざまな分野で多大な功績をあげたイギリスの近代科学者の一人である。

『自然哲学の数学的原理』は、通称『プリンキピア』ともいわれ、運動の3法則(慣性・加速度・作用反作用)や万有引力の法則など、自身の研究と先駆者たちの研究を論理的に系統立てひとつにまとめた大著である。
特に地上におけるガリレイの落体の法則と、惑星の運動に関するケプラーの法則を、万有引力というひとつの力学的な法則に統一したことは著者の最大の業績であり、これにより古典力学の基礎が築かれた。

本書は、『プリンキピア』のロシア語版で、翻訳者はアレクセイ・クルイロフ(1863-1945)である。クルイロフは、ソビエトの数学者・力学者・造船技術者であり、本書以外にもオイラーの『月の運動の新しい理論』のロシア語訳を行った。

『ボズのスケッチ集』

Dickens, Charles 1812-1870
Sketches by Boz: illustrative of every-day life, and every-day people.

著者 ディケンズ
出版地 ロンドン
出版年 1836-1837年

チャールズ・ディケンズ (1812~1870)は、ヴィクトリア朝時代を代表する作家である。家が貧しかったため幼い頃から働きに出ざるを得ず、12歳で靴墨工場に勤めた後、事務員として働きつつ速記術を習得すると、記者として新聞や雑誌に記事を投稿するようになった。

本書は、ディケンズが投稿した作品が初めて掲載された月刊誌「マンスリーマガジン」(1833年12月号)以降、週刊誌「ベルズ・ウィークリー・マガジン」、朝刊紙「モーニング・クロニクル」などの雑誌に掲載された作品を集めたディケンズの処女作品集である。
1836年に第一集、翌37年に第二集が発行され、主な収録作品は「ポプラ小路の晩餐会」や「ボーディングハウス盛衰記」、「黒いヴェールの婦人」である。ロンドンを舞台とし、ディケンズ自身が見聞した町の出来事をスケッチ風に描いたこの短編集が出版されたことにより、小説家ディケンズとして注目されることとなった重要な作品である。

『神経生理・病理学』 初版

Bernard,Claude 1813-1878,
Lecons sur la physiologie et la pathologie du système nerveux:Tom.I-II

著者 ベルナール
出版地 パリ
出版年 1858年

ベルナール(1813-78)は、フランスの生理学者である。初めは劇作家を志したが、パリ大学医学部に学んで、マジャンディ(19世紀前半にフランスで活躍した生理学者)にみいだされ、コレージュ・ド・フランスの助手となる。1843年胃液の研究で学位を取得し、1854年新設のソルボンヌ一般生理学講座の教授に就任し、1855年マジャンディの死後、コレージュ・ド・フランスの教授を兼ねた。

本書は、コレージュ・ド・フランスでの実験医学講座において、1856年12月から翌年7月まで計43回にわたって行った講義集である。この中で血管拡張神経の存在を実証し、神経系の作用によって血流の制御が可能であることを示唆した。
この発見は彼の業績である膵液の脂肪消化作用やグリコーゲンの発見とともに現代生理学の構築に大きく貢献した。

『都名所図会』

著者 秋里 籬島(あきさと りとう)作 /
竹原 春朝斎(たけはら しゅんちょうさい)画
出版年 安永 9(1780)年刊

名所図会とは、江戸時代に盛んに刊行された名所案内記である。
江戸時代前半に、京都では『京童(きょうわらべ)』万治 元(1658)年、『京雀(きょうすずめ)』寛文 5(1665)年、『京羽二重(きょうはぶたえ)』貞享 2(1685)年、『擁州府志(ようしゅうふし)』貞享 3(1686)年など主な案内記が刊行され、後半には寺社の年中行事案内や寺社巡礼の手引き書も出まわり、旅行者や参詣客の便をはかっていた。

本書は、本格的な案内書として安永 9(1780)年に刊行され、間もなく四千部が売れ当時のベストセラーとなった。
他の名所案内記との大きな違いは、本書には名所絵が253点も掲載されていることにある。ほとんどは見開きにまたがる大きな図版で、写生をもとにした寺社の鳥瞰図(ちょうかんず)(高い所から地上を見おろしたように描いた図)、各地の名所旧跡や年中行事、風景、風俗図など名所風景だけでなく、四季の風情、都の人々の暮らしぶりまで、現地取材をもとに細密に描いている。
それまでに刊行された京都名所案内記と比べても、点数の多さ、絵の密度は群を抜いている。また、図会の解説文も詳細をきわめたもので、それぞれの名所の由来、故事、伝説、詩歌を網羅して、旅人の興味にこたえた。
本書が紹介文を添えた名所の数は745箇所にものぼる充実ぶりであった。

秋里籬島と竹原春朝斎は後に、『拾遺都名所図会』『大和名所図会』『摂津名所図会』『東海道名所図会』なども著している。

『狭衣』

著者 谷岡七左衛門刊 整版
出版年 承応3(1654)年

「狭衣」は、承暦年間(1077~81)頃に成立した物語で、別名「狭衣大将」とも呼ばれる。作者は、後朱雀院の皇女六条斎院禖子内親王に仕えた宣旨の源頼国女が定説とされている。

物語は「源氏物語」をモチーフとし、「源氏物語」の薫大将になぞらえられる主人公狭衣を中心に数々の女性を配して筋立を展開している。全編は、源氏と藤壺との関係に対比される、狭衣の従妹であり美しい源氏宮への悲恋で貫かれており、それを軸として、夕顔・浮舟・紫上との関係に対比される、飛鳥井君・女二宮・一品宮・藤壺中宮との恋物語が展開されていく。

『無名草子』や『宇治拾遺物語』などの中世の諸文献によると、『源氏物語』に次ぐ名作として、多くの人に享受され愛読されていたことがうかがえる。

表紙は水浅葱色、表紙中央に題簽を付し「さころも」とある。蔵書印は、各冊巻頭に、「尾陽雲林菴文庫」 の朱長方印、「岳陰書屋」の朱正方印がある。
本書は、「狭衣」4巻10冊、「狭衣系図」1冊、「狭衣目録并年序」1冊、「狭衣下紐」4巻4冊(里村紹巴による最初の古注釈書 天正19(1591)年刊)と合わせ16冊より成る。整版は、活版(活字版)に対するもので、1枚の版木に逆に印刷面を彫刻し、印刷の原版とする木版印刷の最も一般的な方法である。

展示の足跡