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KINDAI UNIVERSITY

貴重書・コレクション

常設展示

2010年

ホーンブック(2点)

(写真左)Hornbook cast in brass, with raised polished letters. Capital letters only. English, 18th century. St Pauls A. D. 1729. " inscribed on the back.
(写真右)Hornbook; Upper-cade black letter alphabet.

出版地 イギリス

日本語では「つの本」(角本)と訳される。15世紀中頃から作られはじめ、18世紀中頃まで主として子供の教育に使われた羽子板状の教具。
1枚の紙、または子羊の皮に、アルファベットや数字、主の祈りなどが手書き、または印刷され、その上を熱湯で溶かして平らに伸ばした牛や羊の角で覆って保護し、周りを動物の皮で囲った。木製や金属製のものもある。子供たちは持ち手の穴に紐を通して自分のベルトに下げて持ち運んだ。労働者や職人、農民の子供たちの教育機関である慈善学校、日曜学校などで、読み方を教える初歩的なテキストとして大いに使われた。
18世紀に入ると、バトルドア(Battledore=羽子板)という厚紙に印刷された、より安価で手軽なものが普及しはじめた。

『クリスマス・キャロル』(初版)、『炉辺のこおろぎ』(初版)、『人生の戦い』(初版)

Dickens, Charles 1812-1870
A Christmas Carol. 1st edition. 1843
The Cricket on the Hearth. 1st edition. 1846
The Battle of Life. 1st edition. 1846

写真は「クリスマス・キャロル」より

著者 ディケンズ
出版地 いずれもロンドン
出版年 1843年、1846年、1846年

「クリスマス・キャロル」
強欲な主人公スクルージが、3人の幽霊と出会うことによってクリスマス・イブの夜に改心し、貧しい人々に手をさしのべるようになるという心暖まる物語。 後に「クリスマスの書」として一冊にまとめて出版された作品の第1作目(全5作)。演劇・映画などの原作として幾度も取り上げられるなど、現在も多くの人に愛されている作品である。

「炉辺のこおろぎ」
「クリスマスの書」の第3作目。幾つかの家庭の悲喜劇の物語。幻影形式のクリスマス物語。

「人生の戦い」
「クリスマスの書」の第4作目。ファンタジーの要素(「クリスマス・キャロル」における幽霊、「炉辺のこおろぎ」のこおろぎの精など)が含まれていない点が、他の「クリスマスの書」の作品と趣を異にしている。献身的な性格の姉妹が最後は共に幸せな家庭を築き、人生を否定的に考えていた姉妹の父親も改心をするという物語。

『イソップ他寓話集』木口木版

Designs on wood by Thomas Bewick (1755-1828)
The Fables of AEsop, and others. Newcastle, 1818.

著者 イソップ著 トーマス・ビューイック編・木版挿絵
出版地 ニューカッスル
出版年 1818年

本書は、紀元前6世紀ごろのギリシアの奴隷と伝えられるイソップ(生没年不詳)とその改作者達の寓話をイギリスの木版画家トーマス・ビューイック(1743-1817)が編纂し、挿絵を入れたもの。

ビューイックは、農家の出身で14歳から金属細工、金属彫版師の下で徒弟修業を始め、師から木版の仕事を任されて技術を磨いた。柘植など硬い材を輪切りにした版面を使い銅版の技法を応用し、彫った線が白く残る白線法を発展させて木口木版を大成した。正確な観察に基づく鳥獣類の細密な描写と、出身地であるイングランド北部の素朴な農村生活を題材にした挿絵の愛情に満ちた暖かい表現が彼の作品の特徴である。

本書は、子供時代に親しんだ寓話に、より優れたデザインの挿絵を入れた本を作りたいと、修行時代から念願していたビューイックが、晩年の大病後、息子ロバートや弟子たちを指導し、また自ら彫版して作られた。タイトルページの左側に受取書が綴じられており、月光に照らされた風景とその上に赤で海草のデザイン、さらにビューイックと息子のサインと彼の拇指紋が押されている。

『英和・和英語彙』

Medhurst, Walter Henry(1796-1857) An English and Japanese and Japanese and English vocabulary compiled from native works. Batavia, 1830.

著者 メドハースト編纂
出版地 バタヴィア
出版年 1830年

メドハースト(1796-1857)は、イギリスの宣教師。ロンドンで生まれ、グロスター市で印刷業に従事した後、ロンドン伝道協会に入り、牧師としてバタヴィア(ジャカルタ)に赴任し、布教のかたわら日本語文献を研究した。
本書は、イギリス人によってはじめて編纂された英和・和英辞典として有名である。英和の部と和英の部の二部から成り、序文に日本語についての解説が述べられている。彼が本書を編纂した目的は、ヨーロッパ人とりわけ英国人の日本語学習のためだったが、日本に来たことも日本人と話したこともなく日本の文献資料から辞書をつくったため、綴りの誤りも見られる。
後に長崎から日本にもたらされ、村上英俊らによって「英語箋一名米語箋」の名で7分冊に編纂され、安政4(1857)年に英和の部3冊、文久3(1863)年に和英の部4冊が刊行されている。

『不思議の国のアリス』

Carroll,Lewis (1832-98)/ Rackham,Arthur(1867-1939)(illust.)
Alice's Adventures in Wonderland. London, 1907.

著者 ルイス・キャロル著
アーサー・ラッカム絵
ツェーンスドルフ装丁
出版地 ロンドン
出版年 1907年

ルイス・キャロル(1832-98)は、イギリスの作家、数学者、写真家。牧師 の長男として生まれ、オクスフォード大学クライスト・チャーチ学寮に進 学し、学士号取得後も数学・論理学の講師として終生この学寮で過ごした。

キャロルは、1862年7月に、学寮長リデル博士の3人娘を連れてテムズ 川の支流にピクニックに出かけ、その舟上で少女たちにせがまれるままに、 次女アリスを主人公にして即興で物語を聞かせた。その話を数カ月かけて清 書し自身で挿絵を書き、手稿本としてまとめたものが『地下の国のアリス』 である。1865年に、倍の長さに書き改め、当時の人気画家テニエルの挿絵 で『不思議の国のアリス』を刊行すると、教訓的童話に飽きている子どもた ちに熱狂的に迎えられ、たちまちベストセラーとなり世界中で翻訳された。

本書は、1907年に、『不思議の国のアリス』の著作権が切れ、7人もの挿 絵画家が『アリス』の本を出版し、その中で最も評判が高かったアーサー・ ラッカム(1867-1939)の挿絵本である。ラッカムは、20世紀前半の挿絵の黄 金時代を代表する挿絵画家で、不気味で威嚇するような木など幻想的筆致に より人々を魅了した。

「日本の童話」(英訳)ちりめん本 5冊

Lafcadio Hearn(1850-1904), Japanese fairy tales

著者 ラフカディオ・ハーン
出版地 東京
出版年 1898-1925年

ちりめん本とは、和紙に木版多色刷の挿絵と欧文を印刷し、特殊な加工で布のちりめんのような質感を持たせた和装本である。
明治初期、長谷川武次郎により日本文化を欧米に紹介することを目的として考案され、昔噺などの親しみやすい題材を翻訳・出版したため、来日した外国人の土産物として人気を得た。

ラフカディオ・ハーンは教師として島根県の松江中学に赴任し、小泉節子と結婚して日本に帰化、小泉八雲を名乗った。日本での実体験に基づいた日本研究を深め、多くの著作を残している。

「日本の童話」は、妻・節子からきいた日本の昔噺や民間伝承を訳述した怪奇的な昔噺である。日本古来より伝わる昔噺に創作を加え、外国人にもわかりやすいように日本の風習を前置きで紹介するなど、工夫の凝らされたテンポのよい構成となっている。

- 展示品 -
THE BOY WHO DREW CATS(らくがき小坊主) Tokyo 1898(明治31年)
THE GOBLIN SPIDER(お化けぐも) Tokyo 1899(明治32年)
THE OLD WOMAN WHO LOST HER DUMPLING(だんごをなくしたおばあさん) Tokyo 1902(明治35年)
CHIN-CHIN KOBAKAMA(ちんちん小袴) Tokyo 1903(明治36年)
THE FOUNTAIN OF YOUTH [第2版](若返りの泉) Tokyo 1925(大正14年)

『都名所図会』

著者 秋里 籬島(あきさと りとう)作 /
竹原 春朝斎(たけはら しゅんちょうさい)画
出版年 安永 9(1780)年刊

名所図会とは、江戸時代に盛んに刊行された名所案内記である。
江戸時代前半に、京都では『京童(きょうわらべ)』万治 元(1658)年、『京雀(きょうすずめ)』寛文 5(1665)年、『京羽二重(きょうはぶたえ)』貞享 2(1685)年、『擁州府志(ようしゅうふし)』貞享 3(1686)年など主な案内記が刊行され、後半には寺社の年中行事案内や寺社巡礼の手引き書も出まわり、旅行者や参詣客の便をはかっていた。

本書は、本格的な案内書として安永 9(1780)年に刊行され、間もなく四千部が売れ当時のベストセラーとなった。
他の名所案内記との大きな違いは、本書には名所絵が253点も掲載されていることにある。ほとんどは見開きにまたがる大きな図版で、写生をもとにした寺社の鳥瞰図(ちょうかんず)(高い所から地上を見おろしたように描いた図)、各地の名所旧跡や年中行事、風景、風俗図など名所風景だけでなく、四季の風情、都の人々の暮らしぶりまで、現地取材をもとに細密に描いている。
それまでに刊行された京都名所案内記と比べても、点数の多さ、絵の密度は群を抜いている。また、図会の解説文も詳細をきわめたもので、それぞれの名所の由来、故事、伝説、詩歌を網羅して、旅人の興味にこたえた。
本書が紹介文を添えた名所の数は745箇所にものぼる充実ぶりであった。

秋里籬島と竹原春朝斎は後に、『拾遺都名所図会』『大和名所図会』『摂津名所図会』『東海道名所図会』なども著している。

『お菊さん』

Loti, Pierre (1850-1923)
Madame Chrysantheme. Paris : Calmann Lévy, 1888

著者 ロティ
出版地 パリ
出版年 1888年

ピエール・ロティ、本名ルイ=マリー=ジュリアン=ビオー(Louis Marie Julien Viaud)はフランスの軍人、小説家。フランス西海岸の港町ロシュフォールの海と所縁の深い旧家に生まれた。海軍兵学校卒業後海軍士官となり、世界を回航する中で得た各地での体験をもとに異国情緒豊かで官能的な小説や紀行文、随筆集を発表した。

本書は1885(明治18)年にロティが長崎に一夏滞在し、日本の女性と暮らした時のことを題材にした作品である。西洋人から見ると珍奇で夢幻的であった当時の日本を辛辣に描いている。
1887年12月から『フィガロ』紙に掲載され、その後単行本として発売された。19世紀後半から20世紀初期のヨーロッパにおけるジャポニスム流行の中でオペラ化されるなど、マダム・バタフライに代表される日本を題材にした作品の先駆となった。

芥川龍之介がロティの日本滞在を題材に『舞踏会』という短編を書き、死去の際には『ピエル・ロティの死』を発表するなど日本の文学者にも影響を与えた。

展示の足跡