貴重書デジタル化資料
エジプト誌 [図版]
1798年、ナポレオンはイギリス軍のインド交通路を絶つため、エジプトを植民地化すべく侵攻を行った。その際、軍隊とは別に総勢150人以上の学術調査団を組織して同行している。調査団は、古代の遺跡をはじめ動植物・地質・水質・地理などあらゆる事象の記録を行った。また、住民たちの服装・体型・音楽・職業・生活様式・風習・度量単位・貨幣の研究もなされ、古代および当時代において観察しうるすべてのものが記録されたのであった。
しかしながら、フランス艦隊はネルソン率いるイギリス艦隊にアブキル湾の戦いで敗れ、その後も敗退を余儀なくされた。イギリスがフランスに示した降伏条件は、学術調査団がエジプトで採集した遺品と調査資料の譲渡であったので、ロゼッタ・ストーンをはじめ多数の彫像やミイラがイギリスに渡り、現在は大英博物館に収められている。しかし、調査資料は死守されたため「エジプト誌」となって後世に残されることになった。
「エジプト誌」の刊行は1809年から始まり14年間を費やし、全23巻894葉にもおよぶ大事業となった。ナポレオンが失脚し王制復古となっても、ルイ18世のもとで国家的事業として継続され、フランスの出版史上最大の企てと評価されている。内容は「古代篇」「現代篇」「博物篇」「地図篇」に分かれ、古代篇および博物篇には色刷り手彩色仕上げの図版がある。特に、鳥類および化石鉱物の図版はすばらしく、当時の技術水準の高さを垣間見ることができる。
西洋古版 日本・アジア地図
マルコ・ポーロが東洋の小国ジパング島を紹介して以来、世界図においてジパング島は新大陸の一部として捉えられていた。コロンブスの新大陸発見後やや改訂はされたが、それでも新大陸の西側に点在する小島群をジパングと記し、位置的にも北回帰線の下に記載されたりしている。1570年のオルテリウスの図で初めて Iapan となって出現し、現在の位置におかれるようになったが、それでもマルコ・ポーロの旅行記を基にした推測に過ぎず、架空の島であった。
しかし、ピントやザビエルなどをはじめとするポルトガル人による東洋進出に伴い、日本について観察した材料に基づく地図が作られるようになり、それが1595年のオルテリウス/テイセラの日本独立図となって現れる。その後、オランダのリーフデ号の豊後漂着などを期に実測がなされるようになり、日本列島は南から徐々に明らかになっていった。そして、イエズス会士マルティーニの地図によって現代地図の基礎が確立されることになった。
18世紀に入ると、ベーリング海峡の発見やラックスマンの根室来航によってカムチャッカが地図上に現れ、クルーゼンシュテルンの樺太探検やラ・ペルーズの千島・樺太探検によって日本北辺も徐々に明らかとなり、日本全土が詳細に明記されるようになった。
本館所蔵の西洋古版日本・アジア地図は全124点あり、プトレマイオス・ミュンスターなどの想像図時代からテイセラ・マルティーニなどのイエズス会士の資料による地図、さらに17世紀半ばから19世紀にかけての実測時代の地図を網羅し、一枚一枚の地図によって日本列島が刻々と正確さを増していった様子をつかむことができる。